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骨髄移植

2010年3月19日に骨髄移植を受けてから
が経ちました!!

私が骨髄移植を行い、早くもの歳月が過ぎました。
主治医をはじめ関係者の皆様そして家族のおかげで、本日も元気で過ごせています。
この10年の節目に、当時を振り返り、ホームページに公表することといたしました。
私と同じく血液疾患を罹患され、病と闘っている皆様へ励みとなれば幸いです。

骨髄移植との戦い

私は、2006年頃より階段や坂道などで息切れがあり、それが徐々にひどくなるため、当時勤務していた梶川病院で血液検査を行いました。すると通常13g/dl以上あるヘモグロビンが9g/dlくらいしかない貧血となっていました。同院で胃カメラやCTなどの検査行いましたが、異常がないため、内科の先生の紹介で、広島赤十字・原爆病院血液内科を受診しました。

骨髄穿刺などの検査を受け、診断されたのが、骨髄異形成症候群でした。この病気は白血病ではないものの、赤血球を作ることができず、貧血となる病気で、将来的には白血病となり、根本的治療は骨髄移植であると主治医から告げられました。私は、医者ながらも、血液疾患に不案内で、その重篤さを理解できていませんでした。一方妻は当時広島赤十字病院の看護師として働いており、血液疾患の患者さんも多く看護していたので、その大変を知っており、ぼろぼろと涙していました。また私は、当時落久保クリニックの開業準備をしていたため、当面骨髄移植はできないと主治医に伝えました。しかし、貧血は進行していくため、輸血をしながら生活することになったのです。

輸血を初めてするときは、緊張しましたが、人間慣れるもので、木曜日午後の週に一度の輸血を楽しみにするようになりました。というのも、貧血が進行し、水曜日になるとかなり倦怠感が強くなります。しかし輸血をすると見違えるように体が楽になるのです。以後ほぼ3年間に渡り、毎週輸血を受けてきました。本当に献血をしてくださった皆様に感謝です。有り難うございます。

それでも、3年も経過すると骨髄細胞が徐々に悪性化し、主治医から骨髄移植が必要であると告げられました。開業したクリニックも、父(大先生)も健在であり、また私の出身医局の広島大学医学部第一外科の支援と、先輩、同輩、後輩の医師たちが当院を手伝ってくれることとなり、骨髄移植を受ける決心をしました。そして骨髄バンクにドナー探しを依頼していただき、幸いにてして待つこと3ヶ月で私に骨髄を提供してくださる方が現れたのです。

 

以後、入院中の写真を撮りためましたので、それとともに振り返ります。2009年3月5日広島赤十字・原爆病院に入院。これは、入院した日の写真ですが、医者の家に生まれ、育ち、医学部を卒業、医者として働き、常に生活は医療の中でしたが、自身の入院は初めてです。なんとなく高揚した気持ちで病室に入りました。

病院勤務時代には、何百回と患者さんに行っていた鎖骨下静脈穿刺です。自分で処置を受けるとなかなか気持ち悪いものです。

まだ、抗癌剤の治療が始まっていない時は、このように余裕です。

抗癌剤が始まると髪が抜けるので、妻に断髪してもらいました。

少し古いですが、まことちゃんカットです。

続いてモヒカンの私です。

最後にスキンヘッドの落久保です。以外と似合っているなあ思っています(笑)。

そして抗癌剤が始まりました。
さすがに少しぐったりしています。

続いて放射線全照射です。これは、治療室に向かうとところを写真撮ってもらいました。治療中は自分の好きな音楽をかけていただき、結構リラックスできました。受けた日は特になんともなかったように記憶しています。

10年前なので、はっきりと覚えてはいませんが、白血球を0にする抗癌剤も、以外に楽だなと感じていました。

 

そしてクリーン・ルームへ、点滴台は、透明なカーテンの向こうです。ベッド側は完全に無菌状態になっています。

そして3月19日、夜10時過ぎ、県外からドナーの方からいただいた骨髄が私の病室に届きました。

本当に大量の骨髄液です。詳しくはわかりませんが、私と比較的同じくらいの体格の男性で血液型はB型でした。ちなみに私もB型なので、移植を受けても、相変わらずの楽天的なB型気質は変わっていません。ドナーの方に心よりの感謝をいつも思っています。

 

それを対応していただく私の主治医たちです。

カーテンの向こうから、徐々に骨髄液が私の体に入ってきますが、はっきり言って緊張感0でした。

ちょっとまずい写真かもしれませんが、移植中、妻との2ショット。10年立ちましたから時効でお願いします。

 

ここから先は、実はほとんど写真がありません。やっぱり楽ではありませんでした。腹痛、下痢、のどの痛み、高熱などなど、記憶は薄れていきましたが、当時はつらかったように思います。

それでも徐々に改善し、髪もほぼ抜けて酸素しながらも、クリーン・ルームでの楽しみの一つのダイエットコークで乾杯です。

そしてクリーン・ルームから出ることができました。この頃は、早く自宅に帰りたくて、「まだか、まだか」と主治医にだだをこねる本当に我が儘な患者でした。

そして念願の退院

家はやっぱりいいです。家の空気、家のにおい、家から見える景色、本当に幸せです。

 

退院した夏には、日本ケアマネジメント学会の研究大会出席するため、薄髪ではありますが、東京に、、、会う仲間たちから、おめでとうの嵐でした。

心から喜んでくれた仲間に感謝感謝です。

 

それから、はや10年早いものです。冒頭にも書きましたが、主治医を初めとする医療スタッフ、代診してくれた仲間の先生方、当院のスタッフ、全国の仲間、そして家族のおかげで今日も元気に診療ができています。これからも、自分の病気のことを時に思い起こし、私たちを信用してくださる患者さまたちと一緒に、当院の理念である「生活を重視した医療」を継続していきたいと考えています。最後までお付き合いいただき有り難うございました。

2020年3月19日
落久保外科循環器内科クリニック
院長 落久保 裕之

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